寺社千里行その3 仁尾町の寺社①

梅雨になって、フィールドワークがしにくい分、しっかりブログを更新しようと思う。

今年の抱負「月一回はブログを更新する」(特大フラグ)

 

そんなことは置いといて、寺社千里行その3!いくぜ!(謎にハイテンション)

 

 Attention!

 本当にちょっぴりだけど、第二次世界大戦の話が出てくるので、苦手な人は、「2. 覚城院と金比羅神社」をカットして読んでね。

 

 

1. 弁天宮と斎之神社(〒769-1102 香川県三豊市詫間町松崎)

三豊市での移動手段は主にバス。

詫間駅から仁尾町に移動するまで、待ち時間が1時間くらいあったので、急遽バス停周辺を探索することに。

とは言っても、バスに置いていかれたら、今度は2時間待ちくらいになっちゃうのであまり自由には動けません。

というわけで、近くの2つの神社に行くことにしました。

 

1つ目は弁天宮。

JR詫間駅のすぐそばにある神社です。

本殿だけの小さな神社なんですけど、これがなかなかに侮れない。とっても細かい彫刻が施されているんです。
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紀元二千六百一年、つまり1941年。

見た感じ、本殿は80年前に建てられたものには思えないけど、『香川県神社誌 下巻』(1938年)に記載がないから、恐らくこの神社ができたのは、1941年なんだろう。

後述する金光寺にも関係するけど、本殿だけ他から持ってきた可能性もなくはない。

それか神社の名前が変わったか。

 

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これは脇障子の写真。

顔の部分だけ別の木でできていたけど、外れちゃったって感じかな。

裏面は彫られていませんでした。

全体を見てみたけど、彫師の名前らしきものは無し。

 

それはそうと、なんで全体の写真撮らなかったんだろう……。

いつも、200mくらい移動してから、「あ、撮ればよかった」って後悔するんだよなあ。

 

 

2つ目の斎之神社までは三豊市立松崎小学校の裏の道をひたすら登っていきます。

これもまた、本殿の写真撮り忘れたんだよね……。(ストリートビューで見れるので、気になる方は、Googleマップで検索してみてください)

というわけで脇障子の写真だけ。

 

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右側も左側も同じデザインでした。この花はなんだろう。牡丹かな?

これまた彫師の名前は見当たらず……。

 

香川県神社誌 下巻』P326だと、拝殿もあることになってるけど、焼けたのか解体したのか……。明らかに境内の敷地26坪もないんだよね……。

まあよくある話だ。

 

斎之神社に行ってるときに、長寿院と五社八幡神社が見えたけど、行く時間がなくて断念。遠目から見てもめちゃくちゃ大きかった……。

バスにはぎりぎり間に合いました笑

余談ですが、三豊市コミュニティバスはどこまで乗っても一律100円。お財布にやさしいです。

 

 

2. 覚城院と金比羅神社(〒769-1407 香川県三豊市仁尾町仁尾丁845)

コミュニティバスに乗って、仁尾小学校前で降りたら、覚城院はすぐそこです。距離的にはね。

でも……

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傾斜がキツいんだよ!!!!

まあでも、距離は大したことないので、大丈夫です。

小学生の元気な声を聞きながら、おねえさんがんばるよ笑

 

山門側から行けばよかったんですけど、裏手から行ったので、坂道を登り終えると、帝国陸軍戦没者のお墓に出ました。

香川だと、空襲を受けたのは高松だけで、それも今の高松第一高等学校の正門の前の道から北側が焼け野原になったというイメージしかないから(軍用施設があったところは、郊外でも焼かれているんだけど)、戦没者といえば高松空襲かな?って思っちゃうんだけど、当たり前のことながら、徴兵されたのはなにも高松だけではないわけで。そんなことをまじまじと考えさせられた。

ちょうどフィールドワークから帰ってすぐの授業で、音研の教授がおばあちゃんから空襲の時の話をきいたって話をしてて、これまたローカルな話になるんだけど、峰山(その1で紹介した石清尾八幡宮の裏にある山)の南側に住んでいた教授のおばあちゃんは、空襲の被害を受けずに無事だったんだけど、逆に北側に住んでた親族の方には亡くなられた方もいたらしくて、山一つ挟むだけで、こんなに運命が変わるんだねって言った。

まあ何が言いたいかって、7,80年でこんなに出来事って風化するのかって話。私と同世代ぐらいが、戦争を体験した人から話を聞ける最後の世代くらいだと思うから、これから先の、それこそ令和生まれの子たちって、どんなふうに戦争をとらえるんだろうね。実際に体験した人から聞かないとさ、やっぱわかんないことあるじゃん。難しいね。

 

話が半端なく脱線したけど、許してね。ブログって自分のためのメモ的な面もあるから、見返して発見があるほうが楽しいから、たぶんこれからも時々脱線する。

 

さて、墓地の階段を降りると、ちょうど金比羅神社の前に出ました。

金比羅神社は覚城院の境内にある神社。

天井絵と彫刻がとてもきれいです。

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右側の天井絵は、きれいに塗りなおされていました。

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玉眼は失われているけれど、笑っているみたいで可愛い龍。

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写真だとサーモンピンクっぽくみえる上の2つの写真は、それぞれ拝殿の右側と左側の彫刻。ここだけ木が新しくなっていたので、最近変えたのかな。

 

山門側に移動すると本堂が。

写真には撮らなかったんですけど、中には曼荼羅なんかも見えました。

ガラス張りなので、いつでも見られると思います。

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山門の飾り瓦。子連れ狛犬がかわいい。 

覚城院に祀られている、鬼子母神と関係があるのかな?

 

最後に覚城院のウェブサイトのリンクを貼っておきます。

境内の写真なんかも見られるので、クリックしてみてください。

国の重要文化財の鐘楼の写真もありますよ!

覚城院【かくじょういん】良縁・子授け・安産祈願・発育|結婚式・神社婚 (kakujouin.jp)

 

 

3. 金光寺(〒769-1407 香川県三豊市仁尾町仁尾丁910)

さて、ここでみなさんに問題です!

この写真、お寺でしょうか、神社でしょうか!

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後ろから見るとこんな感じ。

 

金光寺でこの不思議な建物を見ていると、後ろから声をかけられました。

「すごいでしょ、これ」って。

金光寺のおじゅっさんでした。香川の人は住職さんのことをおじゅっさんと呼びます。

「すごいです!」って答えたら、いろいろ話してくださいました。

 

皆さんお分かりでしょうが、ここはお寺です。

でも、この建物、どうみても神社建築なんですね。

どうしてなんでしょうか。

 

1873年、西日本を中心に血税一揆が起こりました。香川県で起こったものは竹槍騒動と呼ばれます。

金光寺のある三豊町は当時三野群と呼ばれており、一揆が始まった下高瀬村を含む群でもありました。

徴兵反対を中心に掲げた一揆でしたが、同時に学制的教育に対する反感も一揆の要因として大きく、この一揆では48校もの小学校が焼かれます。*1*2

これらの小学校はその多くが寺院、民家によって代用されていました。石島氏によると焼けてしまった小学校のうち、30校が寺院によって代用されていたそうです。*3

金光寺もこの中の一つ。今の仁尾小学校があったのが金光寺でした。

 6月26日に始まった一揆は、翌27日に観音寺にて激化。観音寺の町中にあふれた一揆勢は午後2時ごろに金光寺のある三野群仁尾村へやってきます。この時に、金光寺は焼かれてしまいました。

 

さて、本堂が焼けてしまった金光寺。本堂を再建しなければいけません。

そこでやってきたのは、使われなくなった神社の社殿でした。それもお隣の愛媛県からです。 ばらばらにして運んできて、そのまま組み上げたものが今の本堂になります。

だから、お寺なのに神社建築なんですね。

 

 「中を見たら、もっとよく神社だ!ってわかるんだけどね」と住職さん。

こういう時に、見せてもらえたりしませんか?って言えないのが私の弱いところなんだよなあ……。

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「これ、すごいでしょ。全部透かし彫りなんだよ」

遠目から見たら気づきにくいのですが、近づいてみるとそこら中に透かし彫りの彫刻が。

ひええ……。すごすぎる……。

 

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となりの建物の屋根瓦もとってもかわいい。一富士二鷹三茄子

かわいいですね!って言ったら、目の付け所がいいねって言われました。わーい!

 

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「そうだ、これ見せてあげる」

といって、住職さんは、大師像の下の扉を開けてくださいました。

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中には小石がぎっしり。経石です。

「これ元々は、野菜を入れる箱5杯分くらい石があって、その中で字が読み取れるものだけ貼り合わせて展示してるの。残りのやつは、下に穴を掘って粘土で崩れないように固めて、その中に埋めてある」

たしかに横を覗くと小石がぎっしり。これが下まで続いているんですね。

「いろんな字が書いてあるでしょう。華とか妙とか。色々調べたんだけど、なんのお経を書いたものかはわからなかったんだよね」

私にもさっぱりわかりません。これがなんの経典か解明できるくらい勉強しよう。そしたらドヤ顔で住職さんに会いに行けるもんね。

 

写真撮っていいですか、と聞いたら、「いいよー、撮り終わったら閉めておいてね」と快く了承してくださいました。というか、私触っていいんだ……。見ず知らずここに極まれりの不審者なのに……。

 

最後は、「仁尾の寺社回ってるの? いいね、楽しんでね」と言って送り出してくれました。住職さん、とってもいい人でした。

 

 

まだ一つも三国志作品に出会っていないのに、すでに満足し始めている私。

でも、金光寺の本堂の中見たかったなあ……

 

……。

いや、ほんとはねちょっとのぞいたんですよ。隙間からちょこーっと。

仏さまと目が合いました。天井の。

天井の。

そう、天井画。見た瞬間、心臓止まって反射的に3歩くらい逃げました。

これはやべえ。絶対いつかリベンジしに行く。

この天井画は、すごい(迫真)

 

で、私は何しに仁尾に来たんだっけ? YOUは何しに仁尾町へ?

三国志の絵馬と彫刻を見に来たんですよおねえさん。

あと何か所回らなきゃいけないと思ってるんですか。日が暮れちゃいますよ(フラグ)

ああ、そうだったそうだった。

って、おおっとぉ! 道の向かい側に、全人類が大好きな看板があるぞ! これは行かねば!

というわけで、寄り道追加です。

 

4. 常徳寺(〒769-1407  香川県三豊市仁尾町仁尾丁930)

はい、ここで第2問!

全人類が大好きな看板ってなーんだ!

 

正解は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これ。

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このこげ茶見ただけでテンション上がるでしょ?

猫にまたたび、人間に重文看板ってことわざもあるでしょ?(そんなものはない)

さっきの覚城院の鐘楼のところには看板がなくてしょんぼりしたから、五割増しでテンション上がった。

 

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看板の木の色を、円通殿の木の色にそろえてるのが粋だねー。

 

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天井画もすごくきれいに色が残ってる。

こういう本気で古い建物って、そこだけ時間が止まってる感じがして、怖くて好き。

触ったら吸い込まれそうだよね。

 

金光寺のすぐ裏にあるのに、ここは焼けなかったんだなあ。

目の前が焼け野原になるのを見ながら、竹槍騒動の時も今も変わらず建っているって、本当に時が止まっているみたい。

 

 

5. 広厳院(〒769-1407 香川県三豊市仁尾町仁尾丁982)

Googleマップで、2019年に撮られた、倒れた脇障子の写真を見つけて、今はどうなっているのか気になって行ってみた。

 

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これは、広厳院の境内神社の脇障子の写真。

2年前の写真より風化してる気がする。

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右側は、違う板がはめ込まれている。でもそれもボロボロ。

 

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それぞれ、本殿左側面と右側面の彫刻。

ねずみとうさぎ。

これを見たとき、小学校の教科書に載ってた『ゆうすげ村の小さな旅館』を思い出したんだけど、同世代になら伝わるかな? たぶん3年の教科書だったはず……。東京書籍の……。


広厳院の本堂の中は、土ぼこりに覆われていて、長い間使われていないみたいでした。

 

本当はもっと写真撮りたかったんだけど、スズメバチに遭遇したので退散。

だってスズメバチは洒落になんないんだもん。
 

 

次回予告

仁尾町は歩いていたら、すぐに寺社に遭遇します。

 新しい建物がほとんどない独特な街並みは、ここだけ時が止まっているみたい。

とっても素敵です。

あちこちフラフラしていたら、この時点で工程にだいぶ遅れが。

どうにかなるでしょ、と楽観視していたら、このあと地獄を見ることになるのであった。

そんな波乱フィールドワーク、②で終わるか、③まで続くかは、まだ書いてないのでわからないんですけど、とりあえず次回に続きます!

 

それでは、また次回!!

 

参考文献

佐々栄三郎『讃州竹槍騒動―明治六年血税一揆』(1980年)

佐々栄三郎『讃州百姓一揆史』(1982年)

香川県神職会『香川県神社誌 下巻』(1938年)

*1:佐々栄三郎『讃州竹槍騒動―明治六年血税一揆』(1980年)P198

*2:山形大学講師(当時) 石島庸男氏は「西讃農民蜂起と小学校焼毀事件」(鹿野政直、高木俊輔編「維新変革に於ける在村的諸潮流」所収) なる論文において これを五十七校としておられる。石島氏の数字が九校多くなっているのは、これらの施設の多くは寺院、民家によって代用されており、右の表の区事務所三十一ヵ所のうち七ヵ所、出張所七カ所のうち二ヵ所が小学校との共用であり、この共用部分を小学校数に計上したなどの事情によるのではないかと思われる。(佐々栄三郎同P201,202)

*3:石島氏によれば、小学校施設所有者別数は寺院三十、民家十四、公設建物三、不明となってお り、また、本校四十二、分校十、不明五となっている。(佐々栄三郎同P202)

寺社千里行その2 横山神社と塩屋別院etc.

寺社千里行その2!

こんなこと言うのもあれだけど、続かないと思ってたから、続いただけでもほめてほしい。

ブログに起こすのがね、しんどいんだわ。うん。

行くだけならね、健全な足さえあればどうにかなるんだけどね。

 

なんていうぼやきは置いておいて、今回訪れた寺社を紹介します。

 

 

1. 横山神社(767-0002 香川県三豊市高瀬町新名125)

こちらが今回の目玉!

いや、一発目から目玉を持ってきて大丈夫か??って感じなんですけど、実際に自分が訪れた順番で紹介していくので許してちょんまげ。

横山神社は、JR高瀬駅から約1.6km。徒歩15~20分くらいのところにあります。

商店街を抜けて、川に沿って歩いたらすぐなので、比較的アクセスは良いと思います。

ここで横山神社についてちょこっと紹介。

横山神社の祭神は天手力男命(あめのたぢからおのみこと)。有名な天岩戸の神話で、天岩戸の扉を開けて天照大神の手を引いて導き出し、この世に太陽の光を復活させた神さまです。

享保十五年(1730)の棟札があるそうなので、最低でも300年近い歴史があるんですね。

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後ろの山は葛ノ山というそうです。

ここから階段を約70段のぼっていきます。

ここを訪れた目的は、本殿の脇障子の彫刻を見るため。

無事にみられるかドキドキします。工事中だったらどうしよう。ネットが張られてたらどうしよう。心配が絶えません。

 

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よかった! 見れそうだ!

というわけでまずは拝殿におまいり。写真を撮ったりするので、いつも以上に丁寧に。それでもびくびくしちゃうんですけどね。真正面からは撮らないとか、自分の中で折り合いをつけないと罪悪感で結構しんどい。

御記帳があったので、名前を書きました。地元の方が、かなり頻繁に来ているみたいでした。愛されてる神社っていいよね。

 

さて、本殿へ。この時が一番緊張する!!

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(声にならない叫び)

ぎゃんゔ(関羽)!!!!!!!!

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過呼吸

……いや違うんだ、まだ反対側確認しなきゃ。

張飛がいるとは限らないじゃないか……。

 

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f:id:Kakousou:20210511224023j:plain多分この時のために生きてるんだと思う。(悟り)

 

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本殿の背面はこんな感じ。

 

それぞれの拡大写真。

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関羽

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張飛

 

何なに? 関羽張飛の背中にある板が気になるだって?? 素晴らしい!

2人の背中にある文章は同じだから、よりはっきりしている関羽のほうを拡大。

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大字おおあざ新名しんみょう

)

願主

山下吉三郎

 新名は神社がある地域の地名です。

今でこそ「三豊市新名」と「大字」とか「字」は抜いた呼び方をしますが、本殿が再築された明治十四年(1881)は「大字」を入れて呼んでいました。「上高瀬村大字新名」とかそんな感じかな手元に明治の資料がないから定かではないけど。

本殿の彫師さんはわかりませんでしたが、拝殿の裏にこんな札がありました。

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拝殿の再築は嘉永六年(1853)だから、本殿の彫師さんとは違う方だろうけど、拝殿の彫刻もとってもきれいでした。

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拝殿の彫刻。全体的に丸みを帯びたフォルムがかわいい。

 

本殿には脇障子の彫刻のほかに、飾り瓦がありました。

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何に見えます?(意味深)

なんでしょうね笑 正直なところわかりません。正面から見えないんです。

関羽だったらいいなあ、くらいで濁しておきます。

 

最後に余談ですが、祭神の天手力男命は怪力の神様。だから同じ怪力ということで関羽張飛が脇障子のモチーフに選ばれたのかもしれませんね。
 


2. 本願寺塩屋別院(〒763-0065 香川県丸亀市塩屋町4-6-1)

 二つ目に訪れたのは三国志ファンの間ではおなじみ(?)な塩屋別院です。

三国志研究会第6回オンライン例会でKyo(教団)さんが紹介していた寺社の一つで、山門の彫刻に三顧の礼が描かれています。

Kyoさんのブログはこちらから↓

kyoudan.hatenablog.jp

 塩屋別院は、JR讃岐塩屋駅から800m、徒歩10分くらいのところにあります。

電車の窓から見えるくらい近いし、大きいんです。

何よりうれしいのが、いつでも彫刻を見ることができること!!

山門が閉じていても見える位置に彫刻されているので、安心して行けます。寺社巡りをしていたら三回に二回はお目当てのものが見れず、空振りますからね。(あくまで個人の感想です)

 

さて、一応写真は撮ったんですけど、ここに関しては写真では伝わらないと思うんだ……。でもまあ見せますね。

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どうして伝わらないか。

私も行くまでは、ただの彫刻だと思ってた。

でも行ったら、想像していたのと全然違ったんですよ。

でかい。とにかくでかい。

本当に息が止まったかと思いました。ひぇ……。

多分、香川のどの寺社よりも、一枚絵としては、ここの彫刻が大きいんじゃないかなっていうくらい大きい。

香川の人は絶対見ましょう。県外の方もコロナが終わったら見に来てください。

 

3. 天満天神社(〒763-0066 香川県丸亀市天満町2-1-3)

塩屋別院のご近所の神社です。

この神社は拝殿内に絵馬と、本殿の脇障子に彫刻もあります。

 

境内に入っていったら、後ろを野良犬が走っていきました。神社に野良猫はつきものですが、野良犬は最近あんまり見なくなりましたね。

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拝殿内の算額と絵馬。

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下側にはアルファベットが並んでいる。珍しい。

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絵馬の奉納日を神武紀元で書いてあるのは珍しい。

紀元二千五百六十歳だから、660を引いて、1900年。

帽子の形が中国っぽいから日清戦争の絵馬かな? 年代的にもしっくりくる。

中国風の帽子がなければ竹槍騒動という線もなくはないけど、可能性は薄いかな。

(竹槍騒動については、寺社千里行その3で説明するよ)

それにしてもきれいすぎる気がする。ずっと拝殿の中にあったからかな。

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三十六歌仙かな

 

全体的に、絵馬の保存状態が、ものすごくいい。

全ての神社の絵馬がこうならいいのに……。(贅沢言うな)

 

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脇障子はこんな感じ。

松竹梅は脇障子によく用いられるモチーフ。

細い枝の部分とか、折れやすいのに、ちゃんと残ってるのがすごい。

 

境内のほかの二つの神社もとてもきれいに保たれていました。

管理が行き届いている寺社を見るとうれしくなる。

 

4. 加茂神社(〒764-0026 香川県仲多度郡多度津町南鴨辻384)

この神社には、たくさんの絵馬が奉納されています。

桃園三兄弟の絵馬と、趙雲の単騎駆けの絵馬もあるそうです。

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Kyoさんが訪れた時も開いていなかったと聞いていたから、ダメ元だったけれど案の定開いていませんでした。

一番近いのがJR多度津駅で、加茂神社まで2kmほど。ちょっと歩くけど、2kmで済むならラッキーだと思う。平地だし。(この二週間後に別の神社で、「歩いたらつくんだから楽な仕事やわー」って余裕ぶっこいて地獄を見ることになるのは、また別のお話)

 

絵馬は見られなかったけど、かわいい飾り瓦を見ることができました。

加茂神社だけに鴨、というだけでなく、ここの地名「南鴨」もかけているんだろうな。

建物の威圧的な雰囲気を、うまく中和している気がする。

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5. 道隆寺(〒764-0022 香川県仲多度郡多度津町北鴨1丁目3番30号)

四国霊場第77番札所、道隆寺

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私が訪れたのは4月27日だったのですが、4月29日から5月9日まで、こんなイベントをしていたらしい。

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コロナの関係で、手水舎を使用禁止にしている寺社も多いと思うから、花手水は広まってほしいな。

 

私が訪れたときはちょうど花手水を作っている時でした。

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トラックから色とりどりの花をおろして実際に生けながら、構想を話し合ってらっしゃいました。

たしか、Googleマップに誰かが今年の花手水の写真を上げていたから、気になる人は見てほしい。この写真の花手水とは全然違うデザインになっていて驚いた。なんていうかすごく3Dだった(語彙力ゼロ)。完成したのを見に行きたかったなあ。

 

道隆寺の山門には、三枚の絵馬がかかっていました。

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右下の部分以外は、剥がれて下の板がむき出しになっています。

字を掘った上に絵を描いていたのでしょうか。字の大きさ的に、こういうデザインだったとは考えにくいから、元々は見えなかったんだろう。

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これは右下の部分の拡大。

箱枕だなあ……ってそこじゃないか。ただでさえ体調悪いのに、箱枕とか、絶対にヤダ。昔の人はすごいな。

 

本堂の彫刻も細かくてきれいでした。

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境内神社の妙見宮にも参拝しました。

拝殿内には絵馬がありました。

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終わりに

あー!! やっと終わった!!!!

長かったわ。本当に長かった。途中で口調が変わってる気がするけど気にしない。

肩が痛すぎて推敲する気力がねえ……。明日やろう……。(結局一か月くらい寝かせた)

 

千里行のルールはとにかく直線距離を足していくこと。どう考えても最短距離じゃねーだろって感じでも、自分が訪れた順番に足していきます。

前回の終わりが石清尾八幡宮だったから、

石清尾八幡宮→横山神社+横山神社→塩屋別院+塩屋別院→天満天神社+天満天神社→加茂神社+加茂神社→道隆寺

となります。

これを計算すると、

33.87+12.33+0.39+2.07+0.82=49.48km

千里行ぽくなってきた!笑

 

それじゃあ次回もお楽しみに!

大波乱の三回目になるぞ!!(足とメンタルが死亡)
※大波乱ではありますが、三国志は出てくるので安心してください。

 

参考文献

香川県神社誌 下巻』(横山神社はP344)

『加茂神社覚書』

 

寺社千里行その1 石清尾八幡宮の絵馬殿

三国志関連の絵馬や寺社彫刻について知りたいけど資料がない?

じゃあローラー作戦だ!!

という安易な考えで、関羽千里行ならぬ寺社千里行スタートです。

今回は三国志には全く関係ないので、三国志を見に来た人は、バックオーライ。

 

記念すべき第一回目は石清尾八幡宮

拝殿への扉は閉まっていたけれど、お参りはできるので問題ない!

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めちゃくちゃおしゃれ。

 

 

さて、お参りも済ませたので、本題へ入りましょう!

石清尾八幡宮にはかなり大きめの絵馬殿があります。

収蔵されている絵馬はおよそ60枚!(まあそのほとんどが写真なんですけどね)

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どーん!うん!でかい!

絵馬殿といえば、絵馬が少なすぎてスカスカになるか、逆に重ねすぎて何がなんやらわからなくなることが多いんですけど、とってもバランスがいいですね。

 

こちらが見取り図

 

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見取り図の番号順に写真を貼っていって、気になったところだけ、解説を入れていきます。

 

1.算額

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上:復原奉献

左:豊中町本山 本田益夫 香川県立観音寺第一高等学校

右:財団法人 松平公益会

算額の復元絵馬ですね。

文化三年は西暦でいうと1806年。保存状態が良ければ本物も残ってる年代かなと思います。

この神社に奉納されたものを復元したんでしょうか、もう少し調べられそうだな。

 

2.

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3.

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4.

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5.

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 6.

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 7.

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たぬきかわいい

 

8.

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平成六年(1994)といえば、大渇水が発生した年。

雨乞いの絵馬でしょうか。

 

9.

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左:真鍋呉服店

他は読めない。

 

10.

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上:奉納

下:高松市消防団

左:三月一日?

右:昭和二十八年

題字は「高松宮殿下台覧香川県防大会記念」かな?

 

11.

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12.13.

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14.

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15.

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16.

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ほとんどはがれてますね。左下にちょこっと残っているのは松かな?

 

17.

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18.

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19.

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20.

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 どの金比羅宮だろう……。「金刀比羅宮」じゃなくて、「金比羅宮」なのがポイントなのかな?

 

21.

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相撲の番付表みたいなやつかな。

 

22.

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23.

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24.

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25.

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上:奉納

下:國清呉服店

左:高松市田町

右:大正参年拾月

 女性が三人。剥落していて細部はわからないな。

呉服店らしい立派な着物。

 

26.

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絵師の名前が読めない……

 

27.

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28.

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左:昭和三年十一月 高松市中新町 藤岡幸三郎

御即位記念なのに三年、逆に言えば、頼んでから絵馬が完成するのに三年かかるっていう資料になる……のか??

 

29.

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30.

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31.

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32.

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上:奉納

左:大阪 願主? 太田利吉

右:明治四十年一月吉□日

 何の絵馬だったかはもうわからない。

 

33.

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シルエットは鴨っぽいけど、わからない。

 

34.

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35.

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36.

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37.

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38.

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39.

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上:奉納

下:高松市通町 中村正三郎・峰子

左:金婚式記念

右:昭和四十九年一月二十六日

 

40.

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左:□□松島□□

右:昭和二十五年五月三日奉納

 船と灯台はわかるけど、手前のやつはなんだろう。

 

41.

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42.

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43.

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 なんだろう、不発弾かな?

 

44.

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45.

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46.

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47.

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48.

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49.

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50.

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51.

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これだけ写真がブレッブレだったから、動画からとってきたせいで、画質も何もかも死んでる。

 

52.

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53.

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54.

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55.

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56.

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57.

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左:佐官士 大正□年四月参拾日吉日 明治弐十六年 高松市西□八間□町

右:奉納人 □□重男手製

 読めない。大正と明治が混在してる時点で、絶対読み間違ってる。

 

58.

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59.

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 左側は水が流れてる。船と人が描いてある。扇の的っぽいかなと思ったけど那須与一がいないんだよね。

 

60.

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底に文字がある気もするんだけど、わからないなあ。

 

上ばっかり見上げていたから、首が痛くなりました。

一枚一枚撮るのたいへんすぎるので、もう二度とこんなに丁寧にはやらない気がする……。

とりあえず自分の無知っぷりを改めて痛感したので、勉強します。

 

千里行移動距離

0km

(ここをスタート地点として、寺社間の直線距離を足していきます。)

 

次は三国志が出てくるはず。

それではまた次回!

 















































 

ほうき星

却說司馬懿夜觀天文、見一大星、赤色、光芒有角、自東北方流於西南方、墜於蜀營內、三投再起、隱隱有聲。

 これは、皆さんおなじみ三国演義の第104回の冒頭です。

諸葛亮が死んで、大きな赤いお星さまが落っこちるのを司馬懿が見ているシーンですね。

 

さて、今日の主役は、諸葛亮でも司馬懿でもありません。

全く別の絵についてお話ししようかなと思います。

 

話は大きく変わりますが、皆さん、ハレー彗星ってご存じですか?

あー……違いますよ?

この赤い星がハレー彗星だっただなんて荒唐無稽な話をしようとしているわけではないですからね?

まずは演義から少し離れて、ハレー彗星の話をしようかなと思います。

 

ハレー彗星は75.32年周期で地球に接近する彗星です。

(余談ですが、次は2061年の夏に出現するらしいですよ)

ハレー彗星と聞くと、私なんかはドラえもんを思い出すんですけど、人によっては、前回接近した1986年のことを思い出される方もいらっしゃるかもしれません。

現在の日本人の平均寿命を考えれば、誰でも一生に一度は遭遇する彗星ということになりますから、私たちにとって一番なじみのある彗星のひとつといえるのかなと思います。

 

そんなハレー彗星ならば、現在の私たちだけでなく、過去の偉人達も遭遇している可能性が高いわけで、今日私がお話しする葛飾北斎もまた、ハレー彗星を目にしたかもしれません。

 

一枚の絵をご覧いただきましょう。

 

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これは「ほうき星」という作品で、1840年北斎が81歳の時に描いたものだとされています。

この絵が描かれる5年前の天保6年(1835)にハレー彗星が地球に近づいた記録が残っていることから、この絵に描かれている男性は北斎自身を投影しているのではないか、ともいわれているそうです。

 

さて、ここでもう一枚。

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https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100275195/viewe

これは『絵本早引/名頭武者部類』という絵本の一部分です。

「ほうき星」が描かれた翌年の1841年に作られました。

制作年代の近さも相まって、うーん……同一人物に見えてくるぞ??笑

 

「ほうき星」のなかに描かれた彗星は、演義に描かれたお星さまにそっくりです。

色もしかり、落ちていく方角もしかり。

また、「ほうき星」が描かれた1840年、中国は清王朝で漢服は禁止されていますから、当時の人物を描いたわけではないことは確かでしょう。

 

葛飾北斎は、三国志に関係のある絵をたくさん描いています。

有名なところでは、『北斎漫画』などにもありますが、この『絵本早引』のようにマイナーなところにも、たくさん隠れています。

「ほうき星」のなかの人物が司馬懿であると断定することは不可能ですが、少なくとも何らかの影響を受けていることは確かです。

そう思ってみてみると、絵から受ける印象も違ってくるのではないでしょうか。

 

さて、最後に、二つ目に紹介した『絵本早引/名頭武者部類』についてお話をして終わりにしようかなと思います。

『絵本早引』三部作のひとつ、『絵本早引/名頭武者部類』には、北斎の軽妙なタッチで、主に日本と中国の英雄たちが描かれており、早引という名の通り、それぞれの英雄にちなんだ漢字一字から、イラストを探し出すことができます。

三国志関係では、11人の英雄たちが描かれているので、誰が描かれているのか、それぞれどんな漢字が割り当てられているのか、想像しながら探してみてください。

途中にもリンクを貼りましたが、もう一度貼っておきます。

kotenseki.nijl.ac.jp

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!

お椀の音のこと

 私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

すっかり忘れていたことを、この一文を読んで、思い出した。
そういえば、弟の椀はよく話す子だったな、と。

親が共働きだったので、晩ご飯は祖父母宅で食べていた。
毎日18時30分きっかりに晩ご飯ができるのを当時は当たり前だと思っていたが、今になって、祖母の凄さを思い知っている。

10年前くらいになるだろうか。
ある日、18時30分きっかりに全員が食卓に着くと、虫の声がした。
季節は冬だった。虫がいるはずはなかった。
ラジオの音かと思い、ラジオを切ってみる。
音は消えなかった。
「お椀が鳴っとる」
弟が自分の椀に耳を近づけて言った。
「ほんまかいな」
私も弟の椀に耳を近づけた。
ジイという音がじんわりと耳に響いた。

擬音で表そうとすると「ジイ」という表現になってしまうが、決してザラザラとした音ではない。
雑音では決してない。
会話をしていたら絶対に気づかないような、ちいさなちいさな音だった。

その後、祖父母と私の椀にも耳を近づけてみたが、鳴っているのは弟の椀だけだった。

小学生だった私には、弟の椀が羨ましかった。
椀が鳴ったからといって、だからなんだと言われたらそれまでなのだが、当時の私には弟の椀がとても魅力的に思えた。
というか、弟の椀は喋るのに、自分の椀は喋らないということが、つまらなかった。

木の椀だった。木の幹の色そのままの明るい茶色。ふちに赤色の漆が塗られていた気がするが定かではない。側面には花の模様が描かれていた気がする。でもそれも薄ぼんやりとしか思い出せない。

今、私が使っている椀は喋らない。
今までのどの椀も私に話しかけてはくれなかった。つまらない。
私は喋る椀には縁がないのかもしれない。
私がおしゃべりだから椀の方が遠慮してくれているのかもしれない。

椀の声は静かにしないと聞こえない。
コロナ禍で、食事の時も無言でいろと言われることが多くなった。
人間同士は話せないからと気を遣って椀が話しかけてくれるかもしれない。
椀にコロナはうつらないから。

どうもこの音は、漆の割目から木肌に向かって熱が侵入する時に出る音らしい。
もしこれを読んだ人が、漆の椀を使っているのなら、ご飯の前に少し耳をすまして欲しい。
椀が話しかけてくれるかもしれない。

大原美術館!!!!!

大原美術館に行ってきました。

お目当てはもちろん………
\\\\\\\\\東洋館/////////
そうです。東洋館です。
本館も楽しかったけど、西洋画・日本画の知識はほぼ無いに等しいので、すごーいしか言えない自分にひたすら呆れてました。ちゃんと予習してまた行こう。

順路としては、本館→工芸・東洋館という感じ。分館は構造上ソーシャルディスタンスが取りにくいということで、休館していました。

さて、お目当ての東洋館。
サイトで確認したところ、中国関係の所蔵品は約200点。(所蔵品一覧をちまちま数えた笑)
もちろんその全てが展示されているわけでは無いのでしょうけど、実際に見ていても意外とたくさんあるなぁっていう感想を抱きました。


東洋館の前に本館と工芸館から一作品ずつ紹介。

白髪一雄「赤壁

三国志が好きな人なら、このタイトルを見た瞬間、「赤壁……………だと?」ってなるじゃないですか。まあ私もそうなったんですよ。でも流石に、なんでも三国志に結びつけるのはナンセンスでしょ、と思った。思ったよ?でも、いやぁ…これは赤壁やわってなりました。

白髪一雄はフットペインティングという、天井からつってあるロープに掴まって、床に置いてあるキャンバスに足を使って描くという手法を考案し、70歳まで、この手法にこだわり続けた人です。

赤壁」もこの手法で描かれた作品の一つで、作品の重量がすごい!
大量の絵の具を使って描かれているので、油絵というより、もう完全に立体の作品です。
真っ赤な絵の具の、足によって生み出される躍動感は、あの"赤壁"そのものというよりかは、船を飲み込む炎の渦のような感じで、ぐわっと迫ってくるような緊張感は、やっぱ実物を見てもらわないと伝わらないかなぁ。あ"ー語彙力がなくてごめんなさい…………。

フットペインティングが用いられているので、よく見ると、足指の形が残っているらしいですよ。*1
知らなかったので見てなかったのが残念。
この間ツイートした、知らなかったら観察できないのくだりをこんなところでも痛感するとは……。反省。

ところで。
白髪一雄の有名な作品。皆さんご存知ですか?
それは「水滸伝豪傑シリーズ」!!!!!!
108人の登場人物の名前がつけられた、全108点のシリーズです。
9月30日まで「FM VIRTUAL」で展示されてたので、もしかしたらオンラインで観た人もいるかな?
詳しくはこちら。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/22421

そんな感じで、実は、作品のタイトルを水滸伝とか、三国志演義からとってたりもするんです。
となると、「赤壁」もやっぱり三国志から………?っていうのは邪推かもしれませんが、少なくとも、この作品も三国志から、何らかの影響は受けてるだろうということが分かって、少し嬉しくなりました。

富本憲吉「金描自作模様集」1950

富本憲吉は陶芸家です。
この「金描自作模様集」は本です。
彼が考えた図案とか模様とかを右ページに金色のインクで描いて、左ページに解説を書いてるみたいなかんじになっていました。

ショーケースのなかに展示されているので、全ページが見られるわけではないのですが、たまたま開いていたページに気になる単語を発見。

「(前略)描いた後、米国の何処ぞの所蔵の漢代画像石に、この三ツの塀と同じ構図のものがあるのを知った。」

割と達筆だったので、解読難しかった苦笑。合ってるかわからないけど、まあそんなことはどうでもいい。(ごめんなさい)

問題はここだ。「漢代画像石」。
画像石?あの画像石ですか?
後漢以降の、地下に石で造った墓の壁面にさまざまな絵を彫ったあの画像石のことですか?
でも、画像石ってそんなスラーっと出てくる単語なんですか?陶芸家さんって博識ですね。

この図案。三つの塀が並んでて、後ろにポプラの木が生えてるみたいな感じになってたんですけど、漢代画像石……………わかる方いらっしゃいますか?(調べても全然出てこなかった。)
気になるーーー!!!!


さて。本館も工芸館も堪能したので(?)、本命の東洋館に参りましょう!

工芸館から廊下を渡ると東洋館に……………って「うおっ⁈」
\\\\\\\BUTSUZOU☆///////
そうなんです。東洋館って入ってすぐ、仏像ドーン!で仏像の頭に囲まれるとかいう割と新鮮なホラー体験ができるんですよ。
一瞬入るの躊躇しましたね爆笑
ビビリなので爆笑

気を取り直して見ていきましょう。
東洋館。一つ目の部屋は壁も床も石!まさに遺跡って感じです。
部屋の正面には「一光三尊仏像」北魏のものだそうで、石灰岩でできた高さ約2.5メートルの仏像です。

右手には、仏像の頭部がいくつかと、東魏の「四方仏碑像」なるものが一つ。
「四方仏碑像」は直方体で、その名の通り四つの側面に一人ずつ仏様がいらっしゃいます。
そして、その下に人っぽい絵がたくさん描かれていて、その横には一人一人を説明するかのように文章が。でも全然読めなーい!
比丘尼なんちゃらーって書いてありました。比丘尼は尼僧のことですね。
いやぁ。拓本って大事だねって身をもって感じました。そのまんまじゃ全然読めねーわ。

左手には「太子思惟の白玉像」
説明には、"北斉 天保4年(A.D.553)"と明確な製造年が!
これはどっかに書いてるぞ!と裏に回ると、あったー!ちゃあんと刻んでありました。

仏像って、文章刻んでるやつが多かったんですけど、どれも、〇〇×年みたいなかんじで始まってて面白かったです。

さて。仏像はこれくらいにして。二階にあがりましょう。
二階は、入った瞬間「ショーケース多っ!」って感じでした。感動。
銅鏡とか甲骨卜辞片とか色々あったんですけど、特に印象に残っているのが、後漢の「鍍金の虎符」です。
お隣にあった「玉握」は一対になってたんですけど、「虎符」は右半分しかありませんでした。太守に配られた方ですね。

虎符といえば、虎ちゃんの全身に篆書で文字が書かれてるイメージだったのですが、今日見たやつは、三、四文字しか書いてませんでした。消えちゃったのか、そもそも字数少なめだったのか。ちなみに大きさは7.5センチとちょっと小さめ。虎ちゃんかわいかったです。

ショーケースの間を縫って進んでいくと、唐代の馬の焼き物がたくさん!
みんなお尻がかわいい笑

他にもラクダさんがいました。
見た目は割と普通のフタコブラクダ
上に人が乗っています。
面白かったのが、ラクダの歯!
虎かライオンかと思うくらい尖ってます。がおー笑笑
確かにラクダさんの歯って上の犬歯二本が結構鋭いんだけど、それにしてもやりすぎだろってなりました笑
絶対誰か噛まれて痛い思いしたんでしょうね。

二階はこれくらいにして、一階のもう一つの部屋(さっきの仏像のとこじゃない方)に行きましょう。

この部屋は青銅器とかをメインに置いています。

青銅器のなかでも目についたのが、青銅壷。
把手に鎖がついています。
写真とかで鎖がついてるのを見ると、ボロボロじゃん吊ったらすぐ割れそう、って思うんですけど、実際に見てみると、意外と丈夫そうでした。生で見るのって大切ですね。

ショーケースに気を取られてて、ふっと後ろを振り返ってびびりました。

\\\\\\\墓門の画像石扉///////

後漢のもので、縦104.7センチ、横67.5センチの縦長です。
右上に窓みたいなのがついていました。

絵は下から、「亭っぽいところで食事をしている人間二人」「亭の右隣に武器を持った兵士が一人」「亭の左隣に立ってる(⁈)魚」「その亭の屋根に虎っぽい動物三匹」「ハトみたいななんの特徴もない鳥が何匹か」「鳳凰みたいな冠羽と尾羽がある鳥一羽」
みたいな感じだった気がする…………(うろ覚え)。
裏面にもなんか描いてたんだけど、暗くて見えなかった。こわーい顔みたいなやつ……。

鳳凰っぽい鳥ちゃん
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説明によると、祖先神と共食しているらしいです。

兵士の持ってる武器は、うーん。戈かな?
後漢で戈ってちょっと時代遅れな気がしないこともないが、戟っぽくもないし、うーん。

てかなんで魚立ってるんだよ……………。
実は屋根から吊り下げられてるとか?
わからんけど笑

なんか画像石って言ったら、昇仙図とか、龍とか、泰山的なイメージだったけど、仲良くご飯食べてましたね。

さて、画像石はこれくらいにして。

焼き物系も見ていこう。
二階にあったのは、馬さんとかだったけど、こっちは楼閣とか、豚小屋とかです。
結構沢山の豚さんが倒れてるかんじで作られてたので(寝てるだけだと思うけど)、緑釉の猪圏(豚小屋)で豚がぶっ倒れた……とか思ってたんだけど、あ、面白くない?はーい爆笑

緑釉の楼閣
楼閣の窓からは人が三人くらい顔を出していました。作りが細かいわぁ。

緑釉(褐釉だったかも)のかまど
かまどの上にはお魚が描いてありました。
今から調理するところなのかな。

展示室の真ん中に、大きな金属の物体が。
銅鼓です。
東周〜漢代ごろのもので、縦52.6センチ、横68.5センチ。かなり大きいです。
上面には同心円状にいくつもの円が描かれていて、円と円の隙間に模様がびっしり!それも四種類くらいの模様があります。細かーい……。
そして、銅鼓定番のカエルさんがいます。
側面には…………ゾウさん?
ちっちゃいゾウさん(立体)が八体くらいいました。うそやろ……細か……。

にしても全然叩いても音出そうな感じじゃなかった………めっちゃ丈夫そうでした。
なんかもっとペラいかんじなのかと思ってた爆笑


結構長くなった。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
大原美術館は写真撮影禁止なので、行って生で見てほしい。
西洋美術の方が有名ですが、東洋系も意外とありますよ。
大原美術館倉敷市立美術館、自然史博物館が割と近くにあるから、三つまとめて行くのがおすすめです。
近くを通る機会があったら行ってみてくださいね!

「無常ということ」における歴史観

最近、曹操高陵のことをちょっと調べていて、古代中国の死生観とか、あの世の考え方とかが気になったから、いろんなサイトをのぞいたり、本を読んだりしていた。
そんなときたまたま読んだこのサイト
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/asahi20120622.html
で、中国には関係ないのだけれど、とある文言を見つけた。
小林秀雄『無常ということ』」
高校の現代文の教科書に載っていたので読んだことがあった。
個人的にこの文章にはいい思い出がない。人生で初めてかもしれないくらい、内容が理解できなかったのである。教科書に載っているくらいなのだから、高校生が理解できる範疇なのだろうけど、私にはさっぱりわからなかった。
このサイトに紹介されていたのは、「無常ということ」の本文の後半に載っている小林秀雄さんと川端康成さんとの会話の部分だ。
だが、この文章全体を見てみると、別に死生観の話だけをしているわけではない。
一、二段落は美学について。
三段落は歴史観と死生観について。
四段落はまとめ。といった感じである。
私は授業で特にこの歴史観の部分を重点的に考察したのだが、さっぱりわからない。
悔しいので、久しぶりにもう一度この文章を読んでみた。さっぱりわからない。
でも悔しいので、ちょっと考えをまとめることにする。結論は出ない。

目次

本文整理

美しい歴史と魅力ある新解釈

歴史家というものは歴史に新しい見方とか、新しい解釈とかをつけるのが好きだし、事実、それらは大変魅力的だ。私たちは無意識に新しい解釈を創り出したり、誰かの新しい解釈に飛びついたりすることがしばしばある。
一方、歴史というものは新しい解釈などにしてやられるほど脆弱ではない。
小林秀雄はこの歴史の圧倒的不変性に美しさを感じたらしい。

森鷗外本居宣長

晩年の鷗外は考証家に堕したという説は取るに足らない。膨大な考証を始めて、彼は歴史の魂に推参することができた。
宣長が抱いたいちばん強い思想は「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」ということ。
解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。

小林秀雄川端康成

生きている人間は何をしでかすかわからないし、鑑賞にも観察にも堪えないが、死んでしまった人間というものはまさに人間の形をしている。
生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。

死人しか現れない歴史、僕らを救う思い出

歴史には死人の相しか現れず、それは動じない美しい形しか現れないということだ。
思い出が美しく見えるというのは間違いで、僕らが過去を飾りがちなのではなく、過去の方が僕らに余計な思いをさせないのだ。
思い出が僕らを一種の動物であることから救うのだ。

愚かな歴史家たち

記憶するだけではいけない。思い出すことが大切。
多くの歴史家は頭を記憶でいっぱいにしているので、心をむなしくして思い出すことができない。故に一種の動物にとどまることしかできない。

思い出すということと、無常ということ

上手に思い出すことは難しい。
だが、思い出すということは、時間という蒼ざめた思想から逃げる唯一の本当に有効なやり方のように思える。
この世は無常とは決して仏説というようなものではない。それは人間の置かれる一種の動物的状態である。
現代人は常なるものを見失ったから、無常ということが全然分かってない。

本文読解

この文章は二つのものを対比させることで構築されているかもしれない。(その二つは必ずしも対極にあるものというわけではない)
・歴史と解釈
・死人と生きている人間
・思い出すことと記憶すること
三つとも前者は不変、後者は可変。

歴史と解釈

ハナっからこの文章を根底から揺るがすようで申し訳ないが、まず言わせてもらいたい。
歴史って不変なの?
確かに「歴史」自体は不変だ。だって過去だもん。タイムマシンでもない限り今更変えることはできない。
でも、私たちが「歴史」だと思っているものの多くは「歴史」を誰かが記録したものであって「歴史」そのものではない。
つまり私たちが享受している歴史は既に誰かの手を経ているのであって、「歴史」そのものではない時点で不変ではないのではないか。(多分こういう捻くれた考えが本文読解を妨げている)
歴史は遡れば遡るほど、その正確性は失われる。三国志なんかになったらもうどこまで正確かなんてわかったもんじゃない。
小林は現在伝わっている歴史が、正確な「歴史」だと仮定した上で、それを美しいといっている。
私には少し共感し難い。間違っているかもしれないものを美しいとは思えない。

小林は歴史に新しい解釈をつけることを随分嫌っている。くせに歴史は新しい解釈ではびくともしないと言っている。
なんだか、「俺、殴られても痛くないしー」とか言いつつも、殴られることを恐れている小学生みたい。(意味不明)
これはあれか。歴史は不変だけど、自分は可変だから、新しい解釈とか創って、僕を惑わせるのはやめてくださいってことか。(知らんけど)
でも本文で、「以前『は』新しい解釈から逃れるのが難しかった」って書いてるってことは今は逃れられるってことなのか。
じゃあやっぱりわからん。

確かに新しい解釈によって、歴史をひん曲げようとするのはナンセンスだと思うけど、過去に遡れば遡るほど、「歴史」自体がその正体を隠してしまうのだから、新しい解釈だろうが見方だろうがなんでも創って意地でも「歴史」へたどり着こうとしなければ、私たちは「歴史」には会えないのではないか。
今与えられている歴史を、その筋に沿って考察するだけでは、永遠に「歴史」には追い付かないのではないか。
その過程で、「歴史」から外れてしまったとしてもまた戻って来ればいい。そのために歴史家は、考証家は沢山いる。王道から外れたら誰かが気付いてくれる。指摘してくれる。
逆に言えば、万人が新しい解釈を嫌ってしまうと、もし、いまの歴史考証が間違っていた場合困るのではないか。誰も間違っていることに気づかないままになるのではないか。

小林秀雄歴史学でいえば、近代の歴史を扱う人だ。
三国志とかの古代を考察することが多い私とは、歴史と「歴史」の差異に対する捉え方が違うのだろう。
近代くらいになってくれば歴史=「歴史」の確率が高いから。

とはいえ、三国志においても、小林の考え方は大変重要である。(ここまでボロクソ言ってたのになんやねん)
まあ、好き勝手解釈して、本筋ひん曲げんなよってことだよね。演義と正史混ぜんなってことだよね。(違うだろ苦笑)

鷗外が『考証家』に堕したという説はとるにたらぬ

これはどういうことだ?
考証とは文献や物品から昔の物事を説明したり解釈することらしい。
ここでのとるにたらぬというのは、
1.そもそも鷗外は考証家に堕してない
2.考証家に堕したなんてことはささいなことだ
どっち?
もし2.の方なんだったら鷗外は考証家ってことになる。考証家は新しい解釈を創るのが仕事だ。え?なんで鷗外だけ許されてんの?
「あの膨大な考証」ってなに?(鷗外が書籍を書くためにした考証ってこと?)
「歴史の魂」ってなに?(歴史の不変の部分?)

宣長の『古事記伝』を私は読んだことがない。からあんまり宣長のことは分からない。
ただ、宣長古事記伝制作の上で、歴史のなかから「歴史」を絞る。中国史でいうところの目録学のようなことに重きを置いていた。
事実だけを見つめる姿勢をここから感じられる。
だけど、いや待ってよ。そもそも宣長邪馬台国論争の火種とされるとかいう説がある時点で、めちゃめちゃ新しい解釈してんじゃねーかこのやろおおおおおおおおおおおおお。
三国志演義に基づいて魏志倭人伝(俗称でごめんなさい)解釈してるやつに歴史もくそもあるかぁああああ!!!!!(基づいてるだけで、演義を歴史としてるわけじゃあない……はず。この辺りよく分からん)
演義だぞ⁈演義だぞ⁈
三割虚構も歴史だっていうのか小林秀雄おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!
(別にそんなことは言ってない)
荒ぶってすいませんでした。

死人と生きている人間

生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。

どうも人間というのは死んで初めて完成するらしい。
小林はよっぽど不変が好きなようだ。

歴史には死人だけしか現れてこない。したがってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。

歴史の不変性すら、死人の不変性に帰着するのか。まあ当たり前か。

思い出すことと記憶すること

思い出は過去であり、過去は私たちに余計な思いをさせない。

「余計な思い」とは、歴史における「新しい解釈」か。
試しに何か思い出してみる。昨日のことを思い出してみよう。
………思い出ってなんだ?

思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去の方で僕らに余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、ぼくらを一種の動物であることから救うのだ。

小林は本文の中で、「思い出」と「過去」をあたかも同意語であるかのように使っているように思うかもしれない。(少なくとも私は初めに読んだ時そう思った)
日本語的には「思い出」は必ずしも美しいものである必要はない。過去を思い出すという動作、またはその事柄を「思い出」というらしい。
だが、本文中で小林は「思い出と『なれば』」という表現を使った。「思い出となる」。「過去」は思い出された瞬間、「思い出」になる。

なるほど。だから小林は「思い出すこと」にこだわるのか。思い出されず、記憶されたままの過去は、ただの「過去」のまま、「思い出」にはなれないのだ。

ここまでは納得できた。
しかし最大の難関がまだ残っている。

思い出が、僕らが一種の動物であることから救うのだ。

この部分だ。

過去は私たちに余計な思いをさせないらしい。
余計な思いとは、不快な思いとでも言い換えられるのだろうか。
何にせよ、私たちが思い出を美化しているのではなく、そもそも過去というもの自体が美しいらしい。
不変は美しく、可変は醜い。
では、人間は死なねば美しくはなれないのか、というとき、思い出は私たちを救ってくれる。
過去や思い出は不変のものだ。即ち美しいものだ。しかし思い出は思い出すという動作を伴う必要があるため、死人には得ることができない、生きている人の特権である。
生きている人は美しい過去を思い出すという動作によって美しい思い出に昇華させ、一種の動物、醜い可変のものに、生きながら価値をつけられる、ということだろうか。

記憶するだけでは、過去は思い出にならず、私たちは美しいそれを享受することはできない。
頭が記憶でいっぱいだと、心をむなしくして思い出すことができないらしい。
脳の容量が記憶で満たされていて、心や精神といった思い出すという動作をするために必要なものが欠如しているのか、はたまた思い出を保存するための容量自体がないのか。
思い出とは、いわば過去という脳の中のデータを再読み込みするようなものかもしれない。
記憶で脳が埋まっていたら、空き容量不足で、読み込めないのだろうか。

無常ということ

上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。成功の期はあるのだ。

「上手に」思い出すとはどういうことか。
実は話の都合上カットした第二段落に小林の「上手に思い出せた」と思われる体験が載っている。だが、それはとても抽象的で難しい。
彼は、自らが体験していない、鎌倉時代を思い出したらしい。上手に思い出すということは、自分が生きている「時間」からも逃れられるということだろうか。
そもそも、思い出すことで、私たちは時間から逃れられるのか。
思い出という不変の存在で、時間という可変の存在から逃れる。
恐らく私たちは死人となれば、時間から逃れられるだろう。
さっきも似たような記述があった。

思い出が、僕らを一種の動物であることから救うのだ。

のところ。
生きている人間は時間という妄想のなかにいる成長途中の一種の動物。
思い出は私たちを一種の動物であることから救う。どうやって?「時間から逃れることによって」だ。
案外単純に考えればよかったのかもしれない。
思い出すという動作で私たちは過去に遡れると。不可逆的な時間の流れに、思い出すという行為は唯一逆らうことができると。案外それだけのことなのかもしれない。

ここまで読んできて、ようやくタイトルになっている「無常」がでてくる。

この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。

ここを読んで、私は一瞬「え?」ってなった。
無常=仏説、仏語のイメージしかなかったのだ。
ここでは、小林自身の無常論を展開しているだけなので、単純に仏教の無常とは違うんだよとだけ捉えておくことにする。
だって仏語以外で無常の意味って言ったら、「人の死」とかそんな意味になるから、だいぶ離れてしまう気がする。
無常とは一種の動物的状態らしい。
一種の動物的状態とは、「生きている人という一種の動物」とはまた別物だと思う。
私たちには無常ということが、常なるものを見失ったからわかっていないらしい。
常なるものとは何か。不変のものか。
鷗外と宣長のくだりで出てきた

解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いたいちばん強い思想だ。解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。

案外ここがポイントかもしれない。
解釈を拒絶して動じないもの。「歴史」あるいは「歴史の魂」。私たちは解釈に阻まれて、歴史を見失ったから、無常ということがわからないのか。
おそらくそれだけではないのだろう。
だが、それもまた無常の一つであることは事実だ。
第一段落で、ていとうていとうと、つづみをうって、なうなうとうたっていたなま女房。
ただ事実だけを見て、その先へとゆく。
そんな感じだろうか。
わからない。
さっぱりわからない。

第一第二段落はここではほとんど触れられなかった。残念だ。
結局、わからないことは多い。
「無常ということ」自体が、今の私のように小林が思考をまとめるために書かれたもののような感じがする。
ふわふわぼんやりしている。
私の考えもぼんやりしている。
もし時間があったらぜひいろんな人に読んでほしい。
そして、考えて欲しい。
美学とは。歴史とは。思い出とは。そして、無常とは。