「無常ということ」における歴史観

最近、曹操高陵のことをちょっと調べていて、古代中国の死生観とか、あの世の考え方とかが気になったから、いろんなサイトをのぞいたり、本を読んだりしていた。
そんなときたまたま読んだこのサイト
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/asahi20120622.html
で、中国には関係ないのだけれど、とある文言を見つけた。
小林秀雄『無常ということ』」
高校の現代文の教科書に載っていたので読んだことがあった。
個人的にこの文章にはいい思い出がない。人生で初めてかもしれないくらい、内容が理解できなかったのである。教科書に載っているくらいなのだから、高校生が理解できる範疇なのだろうけど、私にはさっぱりわからなかった。
このサイトに紹介されていたのは、「無常ということ」の本文の後半に載っている小林秀雄さんと川端康成さんとの会話の部分だ。
だが、この文章全体を見てみると、別に死生観の話だけをしているわけではない。
一、二段落は美学について。
三段落は歴史観と死生観について。
四段落はまとめ。といった感じである。
私は授業で特にこの歴史観の部分を重点的に考察したのだが、さっぱりわからない。
悔しいので、久しぶりにもう一度この文章を読んでみた。さっぱりわからない。
でも悔しいので、ちょっと考えをまとめることにする。結論は出ない。

目次

本文整理

美しい歴史と魅力ある新解釈

歴史家というものは歴史に新しい見方とか、新しい解釈とかをつけるのが好きだし、事実、それらは大変魅力的だ。私たちは無意識に新しい解釈を創り出したり、誰かの新しい解釈に飛びついたりすることがしばしばある。
一方、歴史というものは新しい解釈などにしてやられるほど脆弱ではない。
小林秀雄はこの歴史の圧倒的不変性に美しさを感じたらしい。

森鷗外本居宣長

晩年の鷗外は考証家に堕したという説は取るに足らない。膨大な考証を始めて、彼は歴史の魂に推参することができた。
宣長が抱いたいちばん強い思想は「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」ということ。
解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。

小林秀雄川端康成

生きている人間は何をしでかすかわからないし、鑑賞にも観察にも堪えないが、死んでしまった人間というものはまさに人間の形をしている。
生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。

死人しか現れない歴史、僕らを救う思い出

歴史には死人の相しか現れず、それは動じない美しい形しか現れないということだ。
思い出が美しく見えるというのは間違いで、僕らが過去を飾りがちなのではなく、過去の方が僕らに余計な思いをさせないのだ。
思い出が僕らを一種の動物であることから救うのだ。

愚かな歴史家たち

記憶するだけではいけない。思い出すことが大切。
多くの歴史家は頭を記憶でいっぱいにしているので、心をむなしくして思い出すことができない。故に一種の動物にとどまることしかできない。

思い出すということと、無常ということ

上手に思い出すことは難しい。
だが、思い出すということは、時間という蒼ざめた思想から逃げる唯一の本当に有効なやり方のように思える。
この世は無常とは決して仏説というようなものではない。それは人間の置かれる一種の動物的状態である。
現代人は常なるものを見失ったから、無常ということが全然分かってない。

本文読解

この文章は二つのものを対比させることで構築されているかもしれない。(その二つは必ずしも対極にあるものというわけではない)
・歴史と解釈
・死人と生きている人間
・思い出すことと記憶すること
三つとも前者は不変、後者は可変。

歴史と解釈

ハナっからこの文章を根底から揺るがすようで申し訳ないが、まず言わせてもらいたい。
歴史って不変なの?
確かに「歴史」自体は不変だ。だって過去だもん。タイムマシンでもない限り今更変えることはできない。
でも、私たちが「歴史」だと思っているものの多くは「歴史」を誰かが記録したものであって「歴史」そのものではない。
つまり私たちが享受している歴史は既に誰かの手を経ているのであって、「歴史」そのものではない時点で不変ではないのではないか。(多分こういう捻くれた考えが本文読解を妨げている)
歴史は遡れば遡るほど、その正確性は失われる。三国志なんかになったらもうどこまで正確かなんてわかったもんじゃない。
小林は現在伝わっている歴史が、正確な「歴史」だと仮定した上で、それを美しいといっている。
私には少し共感し難い。間違っているかもしれないものを美しいとは思えない。

小林は歴史に新しい解釈をつけることを随分嫌っている。くせに歴史は新しい解釈ではびくともしないと言っている。
なんだか、「俺、殴られても痛くないしー」とか言いつつも、殴られることを恐れている小学生みたい。(意味不明)
これはあれか。歴史は不変だけど、自分は可変だから、新しい解釈とか創って、僕を惑わせるのはやめてくださいってことか。(知らんけど)
でも本文で、「以前『は』新しい解釈から逃れるのが難しかった」って書いてるってことは今は逃れられるってことなのか。
じゃあやっぱりわからん。

確かに新しい解釈によって、歴史をひん曲げようとするのはナンセンスだと思うけど、過去に遡れば遡るほど、「歴史」自体がその正体を隠してしまうのだから、新しい解釈だろうが見方だろうがなんでも創って意地でも「歴史」へたどり着こうとしなければ、私たちは「歴史」には会えないのではないか。
今与えられている歴史を、その筋に沿って考察するだけでは、永遠に「歴史」には追い付かないのではないか。
その過程で、「歴史」から外れてしまったとしてもまた戻って来ればいい。そのために歴史家は、考証家は沢山いる。王道から外れたら誰かが気付いてくれる。指摘してくれる。
逆に言えば、万人が新しい解釈を嫌ってしまうと、もし、いまの歴史考証が間違っていた場合困るのではないか。誰も間違っていることに気づかないままになるのではないか。

小林秀雄歴史学でいえば、近代の歴史を扱う人だ。
三国志とかの古代を考察することが多い私とは、歴史と「歴史」の差異に対する捉え方が違うのだろう。
近代くらいになってくれば歴史=「歴史」の確率が高いから。

とはいえ、三国志においても、小林の考え方は大変重要である。(ここまでボロクソ言ってたのになんやねん)
まあ、好き勝手解釈して、本筋ひん曲げんなよってことだよね。演義と正史混ぜんなってことだよね。(違うだろ苦笑)

鷗外が『考証家』に堕したという説はとるにたらぬ

これはどういうことだ?
考証とは文献や物品から昔の物事を説明したり解釈することらしい。
ここでのとるにたらぬというのは、
1.そもそも鷗外は考証家に堕してない
2.考証家に堕したなんてことはささいなことだ
どっち?
もし2.の方なんだったら鷗外は考証家ってことになる。考証家は新しい解釈を創るのが仕事だ。え?なんで鷗外だけ許されてんの?
「あの膨大な考証」ってなに?(鷗外が書籍を書くためにした考証ってこと?)
「歴史の魂」ってなに?(歴史の不変の部分?)

宣長の『古事記伝』を私は読んだことがない。からあんまり宣長のことは分からない。
ただ、宣長古事記伝制作の上で、歴史のなかから「歴史」を絞る。中国史でいうところの目録学のようなことに重きを置いていた。
事実だけを見つめる姿勢をここから感じられる。
だけど、いや待ってよ。そもそも宣長邪馬台国論争の火種とされるとかいう説がある時点で、めちゃめちゃ新しい解釈してんじゃねーかこのやろおおおおおおおおおおおおお。
三国志演義に基づいて魏志倭人伝(俗称でごめんなさい)解釈してるやつに歴史もくそもあるかぁああああ!!!!!(基づいてるだけで、演義を歴史としてるわけじゃあない……はず。この辺りよく分からん)
演義だぞ⁈演義だぞ⁈
三割虚構も歴史だっていうのか小林秀雄おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!
(別にそんなことは言ってない)
荒ぶってすいませんでした。

死人と生きている人間

生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。

どうも人間というのは死んで初めて完成するらしい。
小林はよっぽど不変が好きなようだ。

歴史には死人だけしか現れてこない。したがってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。

歴史の不変性すら、死人の不変性に帰着するのか。まあ当たり前か。

思い出すことと記憶すること

思い出は過去であり、過去は私たちに余計な思いをさせない。

「余計な思い」とは、歴史における「新しい解釈」か。
試しに何か思い出してみる。昨日のことを思い出してみよう。
………思い出ってなんだ?

思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去の方で僕らに余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、ぼくらを一種の動物であることから救うのだ。

小林は本文の中で、「思い出」と「過去」をあたかも同意語であるかのように使っているように思うかもしれない。(少なくとも私は初めに読んだ時そう思った)
日本語的には「思い出」は必ずしも美しいものである必要はない。過去を思い出すという動作、またはその事柄を「思い出」というらしい。
だが、本文中で小林は「思い出と『なれば』」という表現を使った。「思い出となる」。「過去」は思い出された瞬間、「思い出」になる。

なるほど。だから小林は「思い出すこと」にこだわるのか。思い出されず、記憶されたままの過去は、ただの「過去」のまま、「思い出」にはなれないのだ。

ここまでは納得できた。
しかし最大の難関がまだ残っている。

思い出が、僕らが一種の動物であることから救うのだ。

この部分だ。

過去は私たちに余計な思いをさせないらしい。
余計な思いとは、不快な思いとでも言い換えられるのだろうか。
何にせよ、私たちが思い出を美化しているのではなく、そもそも過去というもの自体が美しいらしい。
不変は美しく、可変は醜い。
では、人間は死なねば美しくはなれないのか、というとき、思い出は私たちを救ってくれる。
過去や思い出は不変のものだ。即ち美しいものだ。しかし思い出は思い出すという動作を伴う必要があるため、死人には得ることができない、生きている人の特権である。
生きている人は美しい過去を思い出すという動作によって美しい思い出に昇華させ、一種の動物、醜い可変のものに、生きながら価値をつけられる、ということだろうか。

記憶するだけでは、過去は思い出にならず、私たちは美しいそれを享受することはできない。
頭が記憶でいっぱいだと、心をむなしくして思い出すことができないらしい。
脳の容量が記憶で満たされていて、心や精神といった思い出すという動作をするために必要なものが欠如しているのか、はたまた思い出を保存するための容量自体がないのか。
思い出とは、いわば過去という脳の中のデータを再読み込みするようなものかもしれない。
記憶で脳が埋まっていたら、空き容量不足で、読み込めないのだろうか。

無常ということ

上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。成功の期はあるのだ。

「上手に」思い出すとはどういうことか。
実は話の都合上カットした第二段落に小林の「上手に思い出せた」と思われる体験が載っている。だが、それはとても抽象的で難しい。
彼は、自らが体験していない、鎌倉時代を思い出したらしい。上手に思い出すということは、自分が生きている「時間」からも逃れられるということだろうか。
そもそも、思い出すことで、私たちは時間から逃れられるのか。
思い出という不変の存在で、時間という可変の存在から逃れる。
恐らく私たちは死人となれば、時間から逃れられるだろう。
さっきも似たような記述があった。

思い出が、僕らを一種の動物であることから救うのだ。

のところ。
生きている人間は時間という妄想のなかにいる成長途中の一種の動物。
思い出は私たちを一種の動物であることから救う。どうやって?「時間から逃れることによって」だ。
案外単純に考えればよかったのかもしれない。
思い出すという動作で私たちは過去に遡れると。不可逆的な時間の流れに、思い出すという行為は唯一逆らうことができると。案外それだけのことなのかもしれない。

ここまで読んできて、ようやくタイトルになっている「無常」がでてくる。

この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。

ここを読んで、私は一瞬「え?」ってなった。
無常=仏説、仏語のイメージしかなかったのだ。
ここでは、小林自身の無常論を展開しているだけなので、単純に仏教の無常とは違うんだよとだけ捉えておくことにする。
だって仏語以外で無常の意味って言ったら、「人の死」とかそんな意味になるから、だいぶ離れてしまう気がする。
無常とは一種の動物的状態らしい。
一種の動物的状態とは、「生きている人という一種の動物」とはまた別物だと思う。
私たちには無常ということが、常なるものを見失ったからわかっていないらしい。
常なるものとは何か。不変のものか。
鷗外と宣長のくだりで出てきた

解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いたいちばん強い思想だ。解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。

案外ここがポイントかもしれない。
解釈を拒絶して動じないもの。「歴史」あるいは「歴史の魂」。私たちは解釈に阻まれて、歴史を見失ったから、無常ということがわからないのか。
おそらくそれだけではないのだろう。
だが、それもまた無常の一つであることは事実だ。
第一段落で、ていとうていとうと、つづみをうって、なうなうとうたっていたなま女房。
ただ事実だけを見て、その先へとゆく。
そんな感じだろうか。
わからない。
さっぱりわからない。

第一第二段落はここではほとんど触れられなかった。残念だ。
結局、わからないことは多い。
「無常ということ」自体が、今の私のように小林が思考をまとめるために書かれたもののような感じがする。
ふわふわぼんやりしている。
私の考えもぼんやりしている。
もし時間があったらぜひいろんな人に読んでほしい。
そして、考えて欲しい。
美学とは。歴史とは。思い出とは。そして、無常とは。